明治31年(1898年)12月18日、冬晴れの上野恩賜公園で行われた西郷隆盛像の除幕式。幕が引かれ、巨大な銅像が白日のもとに晒された瞬間、来賓席にいた西郷の未亡人・糸子(イト)が息を呑み、隣にいた義理の息子に向かって薩摩弁で呟きました。「宿ん人(うちの旦那さぁ)はこげんな人じゃなかった」——この肉声は、居合わせた関係者を通じて瞬く間に広まり、今日まで続く「西郷像別人説」の発火点となりました。
糸子がこう口走った背景には、決定的な事実が存在します。実は、西郷隆盛の生前の写真は1枚も残っていません。明治初期の指導者たちの多くが写真を残すなか、西郷は極度の写真嫌いでした。暗殺を警戒して自らの容貌が敵に割れるのを防いだという治安上の理由や、「魂を抜き取られる」という当時の迷信を嫌ったこと、あるいは明治天皇の御真影盗難事件を機に自らの偶像化を頑なに拒んだためと記録されています。
では、あの誰もが知る「西郷どん」の顔は一体どこから生まれたのか。原型となったのは、明治政府のお雇い外国人であったイタリア人画家、エドアルド・キヨッソーネが描いたコンポジット肖像画です。キヨッソーネは西郷の生前を知る人々の証言を集めつつ、西郷の実弟である西郷従道(目元)と、従兄弟の大山巌(顎・口元・骨格)の写真を掛け合わせてモンタージュを作成しました。日本彫刻界の重鎮・高村光雲はこのキヨッソーネの肖像画を忠実に立体化したため、家族から見れば「似て非なる合成の顔」に見えるのは至極当然の帰結でした。
さらに糸子の発言には、顔立ちの不一致だけでなく別の深刻なショックが含まれていました。西郷家は格式ある薩摩武士の家系であり、隆盛自身も礼節を重んじる人物でした。「天下の西郷が、大衆の面前に下着同然の普段着で引きずり出された」という礼儀作法の面での耐え難い辱めが、あの悲痛な叫びの根底にあったのです。