洞窟を抜けて元の舟に戻った漁師は、帰路の道すがら、あちこちに念入りな「目印」をつけていきました。そればかりか、町に戻るや否や真っ直ぐ役所へ向かい、太守(地方長官)に桃源郷の存在を密告したのです。功名心にかられた漁師と、新たな領土や徴税対象を見つけ出そうとする官吏による、明らかな背信行為でした。
太守は直ちに部隊を編成し、漁師を道案内に立てて捜索隊を派遣しました。ところが、漁師があれほど念入りにつけたはずの目印はすべて見失われており、どれほど探しても二度とあの桃林と洞窟へ至る道を見つけることはできませんでした。
物語はこれで終わりません。この噂を耳にした南陽の高名な隠士(徳の高い知識人)である劉子驥(りゅうしき)が、純粋な探求心から桃源郷を探そうと旅立ちますが、目的を果たせないまま病に倒れ、帰らぬ人となってしまいます。そして『桃花源記』は、次の冷徹な一文で幕を閉じます。
「後遂無問津者(その後ついに、渡し場を尋ねる=桃源郷を探そうとする者はいなくなった)」
なぜ漁師は二度と辿り着けなかったのか。そしてなぜ、徳の高い劉子驥までもが急死してしまったのか。桃花源記結末の真相には、文学的・思想的な2つの重要なレイヤーが存在します。
第1の理由は、「作為と功名心の完全な排除」です。老荘思想に深く傾倒していた陶淵明にとって、桃源郷とは「無為自然(作為を捨て、ありのままに生きる)」の境地そのものでした。漁師が最初に辿り着けたのは、純粋に「道を忘れていた(忘路之遠近)」からに他なりません。無欲で迷い込んだからこそ開かれた扉は、権力への密告、金銭的報酬、功名心といった「世俗の欲望」を抱いた瞬間に、永遠に閉ざされてしまうのです。
第2の理由は、民俗学や中国文学の研究者の間で古くから指摘されている「死後の世界・冥界侵入説」です。陶淵明が散りばめた描写を精緻に検証すると、ゾッとするような暗号が浮かび上がります。
- 桃の木:古代中国の道教において、桃は魔除けの霊木であり、生者と死者の世界を分かつ「境界林」を象徴する。
- 暗く狭い洞窟:外界と異界をつなぐ「産道」あるいは「墓道(羨道)」の構造と完全に一致する。
- 秦代の衣服:数百年前に死に絶えたはずの亡霊たちが、生前の姿のまま平穏に暮らしている幽冥の描写。
- 劉子驥の死:異界の秘密を暴こうとした者が受ける民俗学的な「タブー侵犯の報い(祟り)」。
単なるほのぼのとしたおとぎ話ではなく、現世を拒絶した魂だけが憩うことを許される不可侵のサンクチュアリであったからこそ、現世の論理で侵略しようとした漁師の結末は、完全な断絶という形で決着したのです。