オスロ国立美術館に所蔵されている1893年版の左上には、肉眼では辛うじて判読できる程度の小さな文字で、ノルウェー語の落書きが記されています。
「Kan kun være malet af en gal Mand!(狂人にしか描けなかったに違いない!)」
長年、この書き込みは「絵に憤慨した第三者の鑑賞者によるヴァンダリズム(悪質ないたずら)」だと考えられてきました。しかし2021年、ノルウェー国立美術館の研究チームが赤外線スキャン技術と筆跡鑑定を用いた網羅的調査を実施。ムンクの日記や書簡の筆跡と照合した結果、この落書きはムンク本人が自ら書き込んだものであることが決定的に証明されたのです。
1895年、この絵がクリスチャニア(現オスロ)で初公開された際、批評家や医学生から「ムンクの精神状態は正常ではない」「作者は狂気に冒されている」と痛烈な批判を浴びせられました。深く傷ついたムンクが、自虐と世間への皮肉、そして拭い去れない精神的苦悶を込めて、後から鉛筆で書き加えた悲痛な叫びだったことが明らかになっています。
警察の威信を失墜させた2度の国家級盗難事件
『叫び』の持つ禍々しいまでの求心力は、現実世界でも凶悪犯罪を引き寄せてきました。美術史上類を見ない2度の盗難事件は、世界的なニュースとして報じられました。
1度目の事件は1994年2月12日、リレハンメル冬季オリンピックの開会式当日です。警備が手薄になった隙を突き、窃盗犯グループがオスロ国立美術館の窓ガラスを割り侵入。所要わずか50秒で1893年版を持ち去りました。犯行現場には「杜喘な警備体制に感謝する」という嘲笑的な置き手紙が残されており、英米警察と連携した大掛かりなおとり捜査の末、約3カ月後に無傷で回収されました。
さらに衝撃的だったのが、2004年8月22日に発生したムンク美術館白昼強盗事件です。開館中の館内に覆面をした武装集団が押し入り、拳銃で警備員と来館者を脅迫。壁にワイヤーで固定されていた1910年版の『叫び』と代表作『マドンナ』を白昼堂々力任せに引き剥がし、車で逃走しました。2年後の2006年に警察が奇跡的に奪還したものの、湿気や擦れによる深刻な損傷を負っており、修復チームによる懸命な処置を経て現在の展示に至っています。