当時の町医者や商人、下級武士らが遺した私家版の日記や手記には、公式記録では窺い知れない壮絶な日常の崩壊が活写されています。
江戸本所や深川の長屋地帯では、早朝から遺体を収める「早桶(はやおけ:簡素な円形の棺桶)」を求める人々が桶屋の前に長蛇の列を作りました。あまりの需要過多に桶の製造が追いつかず、酒樽や醤油樽、さらには筵(むしろ)に死体を包んで運ぶ光景が日常化しました。ある町人の記録には、「桶屋の店先で順番をめぐり刃傷沙汰が起きるほどであり、職人は不眠不休で板を削っていた」という生々しい証言が残されています。
さらに深刻を極めたのが火葬場です。千住、町屋、小塚原などの火葬場には、引き取り手のない遺体や長屋から運ばれた棺が山積みにされ、立ち上る煙と異臭が数キロ先まで漂いました。火葬が間に合わず、遺体が腐敗し始める事態を防ぐため、やむなく郊外の寺領に設けた巨大な穴へ何十体もの遺体をまとめて投げ込む「土葬の乱掘」が行われたことも複数の記録で一致しています。街中から賑わいが消え、聞こえるのは鉦の音と遺族の慟哭ばかりという、まさに地獄絵図の様相を呈していました。