尾崎放哉(本名:尾崎秀=ひでまる)は1885年(明治18年)、鳥取県鳥取市の士族の家に生まれました。幼少期から抜群の頭脳を誇り、名門・第一高等学校(一高)を経て東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)へ進学。まさに明治・大正期の国家を背負って立つ最高峰のエリートコースを歩んでいました。
学生時代の放哉は、夏目漱石の門弟たちとも交流を持つなど文学的才気にも恵まれていました。大学卒業後は通信社を経て東洋生命保険(現在の朝日生命などの前身)に入社。異例の若さで大阪支店次長や朝鮮・大邱(テグ)の支店長に抜擢されるなど、順風満帆な出世街道を突き進んでいました。
しかし、その華やかなキャリアは長くは続きませんでした。極度の酒乱とプライドの高さ、そして集団生活への不適応からトラブルを連発し、わずか数年で会社を免職処分となります。その後、満州(現・中国東北部)へ渡るも事業に失敗。妻の馨(かおる)とも別居の末に離別し、社会的地位も家族も財産もすべて失うことになりました。