Q1:斎藤龍興は本当に「無能な暗愚」だったのですか?
A1:近年の研究では、単なる暗愚説は否定されつつあります。十代前半での家督継承という構造的ハンディキャップがあったこと、落城後も本願寺顕如から一向一揆の指揮を委ねられるなど高い軍事・外交能力を発揮したことから、「若くして重責を背負い、強大な信長に最後まで抗った気骨ある武将」として再評価されています。
Q2:竹中半兵衛はなぜ稲葉山城を奪ったのですか?
A2:龍興の側近であった斎藤飛騨守らによる横暴を諌め、主君である龍興に目を覚まさせるための諫死・警告の意味合いが強かったとされています。半兵衛は城を奪った後、信長からの美濃半国での引き渡し要求を拒絶し、半年後に龍興へ城を返還して隠棲しました。
Q3:斎藤龍興の最期と戦死した場所はどこですか?
A3:天正元年(1573年)8月、近江から越前へ退却する朝倉軍の殿を務めた「刀根坂の戦い(福井県敦賀市付近)」において、織田軍の追撃を受けて戦死したとされています。
Q4:斎藤龍興の子孫や家系はどうなりましたか?
A4:大名家としての斎藤家は滅亡しましたが、富山県などに落ち延びて帰農したとする生存説や子孫の家系図が残っています。また、斎藤道三や義龍の血筋は、春日局(明智光秀の重臣・斎藤利三の娘)などを通じて江戸幕府の幕臣や大名家へと繋がっていきました。