経度0度の座をめぐっては、かつて激しい国際的利害と国家の威信が衝突しました。19世紀後半、蒸気船による遠洋航海が急増し、大陸横断鉄道の開通によって各地でローカルタイムの乱立による運行事故が頻発したことから、世界的な経度と時刻の統一が焦眉の急となったのです。
1884年10月に米ワシントンD.C.で開催された「国際子午線会議」には、世界25カ国から41名の代表(外交官や天文学者)が参集しました。当時、本初子午線の候補地にはグリニッジのほか、歴史的経緯を持つパリ天文台を通る子午線や、国家間の対立を避けるための中立地案(大西洋上のカナリア諸島フェロ島など)が浮上していました。
会議の公式議事録によると、イギリス案が圧勝した最大の理由は純粋な科学的優位性というよりも、圧倒的な商船インフラの支配力にありました。当時、世界の海上交易船の72%以上が、イギリス海軍本部およびグリニッジ天文台が発行していた高精度な航海暦(ネイティカル・アルマナック)とグリニッジ準拠の海図を使用していました。もしグリニッジ以外の地点を0度に設定すれば、世界中の海図と航海計器の目盛りをすべて膨大なコストをかけて書き直さなければならず、海運業界が致命的な混乱に陥ることは自明でした。
これに対し、文化的・科学的な対抗心を燃やしたのがフランス代表団でした。彼らは「真の国際協調を目指すなら、特定の大国の首都ではなく中立的な大西洋の島を選ぶべきだ」と猛反発し、最終採決でグリニッジ案が圧倒的多数(賛成22、反対1、棄権2)で可決された際も、フランスとブラジルは棄権に回りました。フランスが公式にグリニッジ子午線を自国の標準時基準として受け入れたのは、会議から27年後の1911年のことであり、国家のプライドをかけた地政学的な意地の張り合いが半世紀近く続いた歴史を物語っています。