安倍洋子氏が単なる「名家のお嬢様」にとどまらず、永田町で恐れられるほどの権威を獲得した理由は、その波乱に満ちた若い頃の経験と鋼の胆力にあります。
1960年の日米安全保障条約改定を巡る「安保闘争」の際、首相公選の場を取り囲む数万人規模のデモ隊を前にしても、洋子氏は動じることなく父・信介氏の側近として首相公邸にとどまり続けました。信介氏が暴漢に襲われ太ももを刺傷された事件の際も、取り乱すことなく血まみれの父の看護に当たり、現場を取り仕切ったという逸話は政治記者の間でも語り草となっています。
自著『わが政治への証言』や雑誌の回顧記事において、洋子氏は当時の心境を「政治家の娘として生まれた以上、何が起きても覚悟を決めて受け止めるのが務めだった」と述懐しています。夫・安倍晋太郎氏が外相や幹事長として多忙を極める中、地元・山口の選挙区を一人で回り、辻立ちから冠婚葬祭の挨拶まで徹底してこなした実質的な司令塔こそ洋子氏でした。
1991年に晋太郎氏が病に倒れ志半ばで他界すると、洋子氏の情熱は次男・晋三氏の育成へと一点集中します。晋三氏が初めて衆議院選挙に出馬した際、壇上に上がった洋子氏は後援会幹部たちに対し、深々と頭を下げながらも芯の通った声で支援を訴え、圧倒的な得票での当選を演出しました。
清和政策研究会(安倍派)の重鎮たちも、洋子氏の意向を無視して物事を決めることはできず、いつしか彼女は「永田町のゴッドマザー」「最後の黒幕」と畏怖を込めて呼ばれるようになったのです。