青年将校たちは「天皇の真の忠臣として、君側の奸(天皇を取り巻く悪人)を討伐した」と信じ込み、陸軍上層部も当初は「諸子の精神は諒とする」と曖昧な態度を示して事態の収拾に及び腰でした。しかし、反乱軍の計算を決定的に狂わせたのは、他ならぬ昭和天皇の激怒でした。
自らが信頼していた側近たちを無残に殺傷された昭和天皇は、事件の一報を聞くやいなや激しい怒りを露わにされました。陸軍首脳が反乱部隊の意向に配慮しようとする姿勢に対し、天皇は侍従武官長の本庄繁大将に対し次のように命じたと記録されています。
「朕が股肱の老臣を殺害するが如きは、背馳の甚だしきもの。朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮圧に当たらん」
(私の最も信頼する重臣たちを殺すような行為は言語道断である。陸軍が躊躇するなら、私が自ら近衛師団を率いて反乱軍を討伐する)
天皇の断固たる意思を受け、政府は27日に東京市内に戒厳令を布告。反乱部隊は「決起軍」から一転して「反乱軍」と認定され、天皇の命令である「奉勅命令(ほうちょくめいれい)」が下達されました。
29日早朝、包囲した鎮圧軍は投降を促すため、空からは「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」と記したビラを散布し、アドバルーンを掲揚。ラジオからは兵士の親兄弟の心情に訴えかける有名な投降勧告放送が繰り返し流されました。大義名分を失った兵士たちは次々と原隊へ復帰し、首謀者の青年将校たちも自決や投降を選び、クーデターはわずか4日間で完全に鎮圧されました。