第二次上田合戦で徳川秀忠率いる大軍を撃退しながらも、西軍の敗北によって昌幸と信繁は紀伊国の九度山(現在の和歌山県九度山町)へと配流されます。かつて徳川家康を二度も破り、天下を震撼させた天才軍略家にとって、山深い小村での隠遁生活は耐えがたい屈辱の日々でした。
ドラマ版の第38回「昌幸」では、老いと病に蝕まれ、次第に生気を失っていく昌幸の哀愁が見事に描かれました。床に伏しながらも軍記物や地図を手放さず、最後まで大坂城へ駆けつけて家康に一泡吹かせる妄執に囚われ続けた姿は、見る者の涙を誘いました。
史実における真田昌幸の死因は、慶長16年(1611年)6月4日、享年65での病死(老衰・胃病など)と伝えられています。ドラマでも病によって静かに息を引き取りますが、死の直前に信繁へ自身の「策」のすべてを託す場面は、のちの大坂の陣で信繁が築く出城「真田丸」への決定的な伏線となりました。