1956年の日ソ共同宣言調印は、自身の政治生命、そして文字通り命そのものを賭けた最大のギャンブルだった。脳出血の後遺症に苦しみ、身体の自由が利かない限界状況にありながら、モスクワへの渡航を強行。自らの命を削る覚悟でフルシチョフらソ連首脳陣との直接交渉に臨んだ。
国連加盟と北方領土問題を巡る攻防は難航を極めたが、共同宣言という形式で国交回復を達成。シベリア抑留者の帰還や国際社会への完全復帰という歴史的快挙を成し遂げた。死線をくぐり抜けて下された決断の瞬間は、今なお外交史上の奇跡として語り継がれている。