日本全国に存在する民俗芸能の中で、なぜ「阿波おどり」「郡上おどり」「西馬音内の盆踊」の3つが揺るぎない三大盆踊りとして定着したのでしょうか。文化庁の民俗調査報告や各保存会の史料を紐解くと、それぞれが「規模の圧倒性」「庶民統合と開放性」「死生観を宿す芸術的幽玄さ」という、盆踊りの三大本質を極限まで体現している事実に突き当たります。
阿波おどりの起源は諸説ありますが、天正15年(1587年)に蜂須賀家政が徳島城を築城した際、城下の町民に「無礼講」として踊りを許したという築城起源説、あるいは念仏踊りや精霊踊りが結びついた説が有力です。江戸時代には「一揆の謀議につながる」として藩から度重なる禁止令が出されたものの、町衆のエネルギーは抑えきれず、やがて「連(れん)」と呼ばれる踊り手集団を組織して洗練を極めていきました。動員数約100万人以上を記録する爆発的な生命力こそが、第一の選定理由です。
一方、岐阜県奥美濃の「郡上おどり」は、慶長年間(1600年頃)に郡上八幡城主となった遠藤慶隆が、領民の融和と士農工商の身分融解を図るため、お盆の4日間だけは無礼講で身分を問わず踊ることを奨励したのが本格的な始まりと伝えられています。7月中旬から9月上旬まで延べ30夜以上にわたって踊り続け、8月13日から16日の「徹夜踊り」では夜を徹して狂乱の輪が広がる――。この「日本一長く、誰にでも開かれた無差別な祝祭性」が、第二の基準となりました。
そして秋田県羽後町の「西馬音内の盆踊」は、鎌倉時代末期の正応年間(1288〜1293年)、源心寺の修行僧・源韶(げんしょう)が念仏踊りを伝えたことに端を発するとされます。さらに慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いに連座して滅亡した西馬音内城主・小野寺茂道とその家臣の怨霊を鎮めるための「亡者踊り」が合流。約700年にわたる鎮魂の祈りが、顔を隠す黒頭巾や端縫い衣装に宿り、他に類を見ない「死者と生者が交錯する幽玄の美」を生み出しました。
2022年11月には、国指定重要無形民俗文化財である郡上おどりと西馬音内の盆踊りを含む全国41の民俗芸能が「ユネスコ無形文化遺産 風流踊」に一括登録されました。生者を励まし、死者を悼み、共同体の絆を結び直すという無形の価値が、世界基準で公認された瞬間でした。