インターネット上の言説では、火野葦平を「軍部に魂を売った御用作家」と断じる短絡的な言説が散見されます。しかし、歴史の事実関係を精査すると、そこには大きな乖離が存在します。
戦時中、『麦と兵隊』は確かに軍部によって国民統合のシンボルとして利用されました。しかし、火野自身が提出した草稿には、軍の検閲によって無数の削除や修正が加えられていました。敵軍の死者に対する哀悼の念や、日本軍兵士の規律の乱れ、略奪を示唆するような記述は容赦なく赤ペンで消されたのです。火野は自著の中で、検閲によって骨抜きにされる文章に苦悩し、手記の余白に自問自答を書き残していました。
戦後、火野は「戦争協力作家」の筆頭としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から公職追放処分を受けます。激しい世論の糾弾にさらされながらも、彼は自己弁護や言い逃れを一切せず、「自分は一兵卒として、愛する兵隊たちの姿を後世に残そうとしただけだ。その責任はすべて引き受ける」と公言しました。そして1960年1月、火野は自宅の書斎で睡眠薬自殺を図り、53歳で自ら命を絶ちます。枕元に残された遺書には、戦時中の自己の振る舞いに対する痛烈な悔恨と、死ぬまで兵士たちの魂を背負い続けようとした作家の壮絶な覚悟が刻まれていました。安易な「戦争賛美」のラベルでは決して捉えきれない、歴史の重圧がそこにあります。