結論から整理すると、物理的な肉質(筋繊維そのものの柔らかさ)において圧倒的に柔らかいのは「ヒレ」です。しかし、日常の食事体験において「ロースのほうが柔らかく感じた」という声が後を絶ちません。ここには、人間の味覚と食感が引き起こす「ジューシーさの錯覚」が存在します。
医学的・解剖学的な見地から見ると、ヒレ肉が柔らかい理由は明確です。ヒレは豚や牛の背骨の内側に沿って位置する大腰筋(だいようきん)と呼ばれる筋肉で、動物が生涯においてほとんど運動に使わない部位にあたります。運動量が少ない筋肉は、筋肉同士を束ねる結合組織(コラーゲン)が非常に薄く発達していません。そのため、歯を入れた瞬間に筋繊維がほろりと解けるような、絹のようにきめ細やかな舌触りが生まれます。
それにもかかわらず、外食や自炊で「ヒレがパサパサして硬い」と感じてしまう最大の落とし穴は、脂質含有量の少なさと加熱温度の関係にあります。ヒレ肉は脂肪が極めて少ない純粋な赤身肉です。肉の主成分であるタンパク質は65℃を超えると急激に収縮し、内部の水分を外に放出してしまいます。水分を抱き込むための脂身が存在しないヒレ肉に火を通しすぎると、水分が抜け切ってしまい、パサついた消しゴムのような硬直状態に陥るのです。
対するロースは、背中側にある胸最長筋などを指し、適度に運動する部位であるため筋繊維自体はヒレよりも太く弾力があります。しかし、ロース肉の脂身とサシの特徴として、筋肉の周囲を覆う分厚い脂身(皮下脂肪)と、肉の内部に適度に入り込むサシ(霜降り)を持っています。この脂が加熱によって50℃前後から溶け出し、噛んだ瞬間に肉汁とともに口内に広がることで、脳が「とろけるように柔らかい」と認識します。つまり、「筋繊維自体の柔らかさを楽しむヒレ」と「脂の潤滑作用による柔らかさを楽しむロース」という決定的な質の差が存在するのです。