10年間の吹き替え史において、最大のハードルとなったのが思春期の声変わり(変声期)でした。特に第3作『アズカバンの囚人』から第4作『炎のゴブレット』にかけての時期は、少年の身体から青年の身体へと変化する過渡期であり、小野賢章自身にとっても声優人生で最も過酷な試練でした。
海外の子役吹き替えでは、声変わりを理由にキャストが途中で交代することは珍しくありません。実際、当時インターネット上の掲示板やファンコミュニティでは「ハリーの声優は交代するのではないか」という噂が頻繁に飛び交っていました。
現場での苦悩は深刻でした。昨日まで出せていたハイトーンが出なくなり、マイク前で突然声が裏返ってしまう。低音を意識すると今度は台詞のニュアンスが重くなりすぎてしまうというジレンマに直面します。当時のインタビューで小野賢章は「思い通りに声がコントロールできず、アフレコに行くのが怖かった時期があった」と赤裸々に告白しています。
この危機を救ったのは、音響監督や演出陣の温かいサポートと、本人の徹底した発声トレーニングでした。スタッフ陣は「ダニエル・ラドクリフ自身も全く同じ変声期の苦しみを抱えながら演じている。その掠れや不安定さこそが、今しか録れないリアルなハリーの成長だ」と捉え、小野賢章の続投を強く後押ししました。
結果として、第4作以降は太く艶のある魅力的な低音ボイスへと進化を遂げ、ハリーの内面に宿る葛藤や闇、そしてリーダーとしての逞しさをより説得力を持って表現することに成功したのです。