歌舞伎界において、名門の幹部俳優が一般家庭出身の役者を法的な「養子」に迎える事例は極めて異例です。その歴史的な決断が下されたのは1992年、愛之助が20歳の時でした。当時、上方歌舞伎の名門・松嶋屋の重鎮であり、人間国宝に認定される女方の名優・2代目片岡秀太郎が、実子がいるにもかかわらず、なぜ愛之助(当時の名義は片岡千代丸)を養子として迎え入れたのか。その背景には、上方歌舞伎そのものの存亡に関わる構造的危機がありました。
昭和後期から平成初期にかけて、東京の歌舞伎界が華やかに繁栄する一方で、関西発祥の上方歌舞伎は劇場の減少や後継者不足によって急速に衰微していました。片岡一門を支える秀太郎は、門閥の血を引く実子の将来を見据えつつも、舞台の最前線で上方特有の柔らかみや匂い立つような芸風を体現できる「実力派の後継者」を激しく求めていたのです。
秀太郎は生前のインタビューや手記において、若き日の愛之助について「どんな端役でも舞台の袖で先輩の芝居を食い入るように見つめ、言われたことを一瞬で吸収する天才的な勘を持っていた」と述懐しています。稽古場での並外れた集中力、そして何より上方歌舞伎に対する無私な愛情に打たれた秀太郎は、「この子に松嶋屋の芸をすべて叩き込み、上方歌舞伎の灯を絶対に絶やさない」という強固な決意のもと、法的な養子縁組を断行。これにより、上方ゆかりの大名跡である「片岡愛之助」の6代目が誕生しました。