なぜ兼好法師は、誰もが歓声を上げる「満開の桜」や「晴れ渡る名月」を相対化したのでしょうか。ここには、従来の平安貴族的な雅びを再解釈した兼好法師の美意識と、中世特有の仏教的無常観が色濃く反映されています。設問でも頻出となる筆者の主張と理由を掘り下げていきましょう。
兼好が批判的に見つめていたのは、「分かりやすい絶頂だけをありがたがる画一的な感性」です。世間の大半の人々は、桜が満開になれば騒ぎ立て、散ってしまえば見向きもしません。しかし、兼好に言わせれば、それは対象そのものを深く味わっているのではなく、「満開である」という記号的・表面的な事象を消費しているに過ぎないのです。
古典文学の解釈における重要な転換点として、平安時代の『源氏物語』に見られる「もののあはれ」は、目の前の美しい風景や切ない情景に素直に感応する共感の美学でした。対して兼好法師が提示したもののあはれの真相は、そこから一歩踏み込んだ「想像力による補完」です。見えない月を想い、散り果てた花に過去の栄華と生命の儚さを重ね合わせることで、鑑賞者の精神世界そのものを豊かに拡張させるという、高度に知的な美意識が貫かれています。