魚豊は後に発表した『チ。―地球の運動について―』において、「真理を求める情熱」「時代や体制の否定を超えて受け継がれる知性」を描き、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞など数々の賞を総なめにしました。その根底にある哲学的思想は、すでにデビュー作である『ひゃくえむ。』で完全に確立されていました。
作中で繰り返される「人はなぜ走るのか」「何のために競い、何に価値を見出すのか」という問い。魚豊が提示したメッセージは、社会や他人が定めた「1着=勝者」「2着以下=敗者」という記号化された価値観に対する痛烈なアンチテーゼです。
社会は常にわかりやすい数字やランクで人間を値踏みします。しかし、走っている10秒間の内面で起きている思考の爆発、肉体の躍動、他者との魂の交錯は、数字や順位といった枠組みには決して収まりきりません。魚豊があえて着順の数字を描かなかったのは、「他人の物差し(記録や順位)で測れない絶対的な実存の歓び」を描くために不可欠な選択だったといえます。