インターネット上の言説やアート紹介ブログでは、「エッシャーは当代屈指の数学者だった」「高度な高等数学の方程式を解いて版画を制作していた」という記述が散見されます。しかし、これは美術史における代表的な誤解の一つです。
エッシャー自身は生前、自著の手記やインタビューの中で、次のように率直な告白を書き残しています。
「私は数学の正式な教育をまったく受けていない。高校時代の数学の成績は惨憺たるものだった。皮肉なことに、私の作品の多くは数学者たちによって最も深く理解されているが、私自身は彼らが使う数式を一行たりとも理解できないのだ」
彼を突き動かしていたのは、抽象的な数理計算ではなく、「視覚的な直感と厳格な職人気質」でした。彼がノートに書き留めた数百に及ぶスケッチブックを調査すると、高度な偏微分方程式などは一切登場しません。そこにあるのは、コンパスと定規を使い、紙を折り曲げ、ミリ単位の線を数千回引き直しながらパターンを分類した、泥臭い手作業の痕跡です。
前述のペンローズ親子との学術的対話も、数式ではなく手紙に添えられたスケッチのやり取りによって行われました。1960年代にエッシャーの版画集を手にした著名な結晶学者カロリーナ・マッキャブラリーや、数学者ハロルド・コクセターらは、「このオランダの版画家は、現代の数学者たちが発見するより以前に、非ユークリッド幾何学(双曲幾何学)の原理を自力で視覚化してしまっている」と驚嘆しました。つまりエッシャーは、「理性の論理」からではなく「手の直感」によって数学的真理の深淵に到達した稀有な芸術家だったのです。