1945年3月末、米軍の慶良間諸島上陸から始まった沖縄戦は、日米両軍合わせて約20万人以上が命を落とす凄惨な消耗戦となりました。その最大の特徴は、「軍民無差別」の地上戦であり、犠牲者の半数以上にあたる推定12万人以上が一般住民であった点です。
日本軍第32軍の司令部が置かれていた首里城地下壕が陥落した後、軍は島南部へと撤退。多くの民間人が逃げ惑う中、激しい艦砲射撃と空爆、火炎放射器による攻撃が島尻郡の狭いエリアに集中しました。1945年6月23日未明、沖縄本島最南端に位置する糸満市摩文仁の軍司令部壕において、司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将が自決。これにより、日本軍の組織的な指揮系統が消滅したことから、この日が「沖縄戦終結の日」として位置付けられました。
南部戦線では、女学生で構成された学徒隊の悲劇も色濃く残されています。看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の終焉の地であるひめゆりの塔周辺でも、軍の解散命令を受けた後に逃げ場を失った生徒や教師が次々と犠牲になりました。当時の生存者が手記や証言で遺した「壕の外は鉄の暴風で地獄だった」「生き残ることすら罪悪感を感じた」という生々しい告白は、慰霊の日が単なる歴史の1ページではなく、今を生きる人々の血の通った記憶であることを物語っています。