討ち取られた天草四郎の首は、幕府軍に捕らえられていた四郎の実母や姉に見せられました。母は当初「わが子は神の加護によりすでに天へ昇った」と否定したものの、変わり果てた息子の首を前にして涙を流し、これによって首実検が完了したと記録されています。
確認された四郎の首は、まず原城の大手門前に一揆軍幹部の首とともに晒されました。しかし、幕府の処置はそれだけにとどまりませんでした。松平信綱は四郎の首を長崎へと運ばせ、なんと当時平戸から移転計画が進んでいた長崎・出島のオランダ商館前、さらにはキリシタン処刑場であった西坂などにも晒させたのです。
なぜ幕府は、わざわざ長崎の出島にまでさらし首を運んだのでしょうか。その背景には極めて政治的な2つの理由がありました。
第一に、国内外に対する絶対的な権力誇示です。出島は海外との窓口であり、ポルトガル人やオランダ人といった西洋人商人たちに対し「キリスト教反乱の首謀者を完全に処刑した」という事実を突きつけ、布教を一切容認しない強硬姿勢を世界へ示しました。第二に、長崎に潜伏していた多くのキリシタン信徒たちに対する心理的絶望感の植え付けです。「奇跡を起こす救世主」と信じられていた少年の死を公に晒すことで、再度の蜂起を完全に封じ込める狙いがありました。