家斉の政治生活において最も深い影を落としたのが、天保8年(1837年)に将軍職を次男の徳川家慶に譲った後、自らが「大御所」として君臨した大御所時代の二重権力構造です。将軍在職50年という前人未到の記録を打ち立てた後も、本丸の家慶を差し置いて西の丸に座り続け、人事権と最終決裁権を死ぬまで手放しませんでした。
この時期の家斉と家慶の父子関係は、極めて歪なものでした。家慶は幼少期から偉大すぎる父の影に怯え、将軍就任時すでに40歳を過ぎていたにもかかわらず、何事も父の顔色を伺って追認するだけの「そうせい様(すべて仰せの通りに、の意)」と陰口を叩かれるほど無力化されていました。実質的な最高権力者である大御所・家斉の取り巻き(水野忠成、中野清茂ら)が賄賂政治を横行させ、幕府の財政規律は完全に麻痺しました。
その歪みが極限に達したのが、天保の大飢饉と、天保8年に大坂で勃発した大塩平八郎の乱です。元幕府の役人(与力)であり陽明学者であった大塩が、飢餓に苦しむ民衆を救うために蜂起した事件は、徳川の屋台骨を根底から揺るがしました。民衆が餓死する一方で、江戸城西の丸では家斉と側室たちの宴席が連夜催されていた事実は、当時の日記や風刺画にも痛烈に記録されています。天保12年(1841年)に家斉が69歳で没した直後、家慶と老中・水野忠邦が「天保の改革」を断行し、お美代の方をはじめとする家斉派の側近たちを即座に粛清・追放した事実が、積年の怨嗟の深さを何よりも物語っています。