物語に圧倒的な真実味が宿っているのは、この劇的な展開が泉鏡花自身の身に起きた実話を赤裸々に反映しているからです。
鏡花は明治30年代、神楽坂の人気芸者であった「桃太郎」こと伊藤すずと恋に落ち、周囲に隠れて同棲生活を始めました。しかし、鏡花が終生敬愛し、絶対的な権威を持っていた師匠・尾崎紅葉にこの関係が知られてしまいます。紅葉は鏡花を呼び出し、「芸者と同棲するなど言語道断。即刻別れなければ破門にする」と激怒して猛反対しました。
当時の文学界における師弟関係は絶対的であり、破門は文壇からの永久追放を意味していました。鏡花は泣く泣くすずと別れ、師の言いつけに従う道を選ばざるを得ませんでした。この痛烈な挫折体験とすずへの贖罪の思いが、後に『婦系図』という名作へと昇華されたのです。
小説『婦系図』の中では、主税と別れたお蔦は心労から病に倒れ、哀れな死を遂げるという悲劇的な結末を迎えます。しかし現実の歴史においては、師・尾崎紅葉が胃癌で早逝(享年35)した後、鏡花はすずを呼び戻して復縁し、正式に入籍して生涯にわたり深い愛情を注ぎ続けました。小説の悲哀に満ちたラストシーンは、師への忠義を立てるために愛する女性を一時的に裏切ってしまった鏡花の、痛切極まる贖罪の表現だったと解釈できます。