中村梅雀の表現の原点を語る上で避けて通れないのが、父である四世 中村梅之助の存在と、2007年の「前進座退団」という劇的な転換点です。
祖父の三世 中村翫右衛門は、松竹から独立して1931年に「劇団前進座」を結成した伝説的な名優であり、父・梅之助もその前進座の看板スターとして一時代を築きました。そんな演劇界の巨頭たちを親族に持つ梅雀にとって、生まれ落ちた瞬間から敷かれていたレールはあまりにも重厚でした。若い頃の中村梅雀は、本名である三井進一として東京都立荻窪高等学校から桐朋学園短期大学演劇専攻へ進学し、正統な演劇教育を受けながらも、常に「梅之助の息子」「翫右衛門の孫」という色眼鏡で見られる重圧と闘っていました。
1980年に二代目 中村梅雀を襲名して以降、劇団の中心として舞台に立ち続けたものの、50代を迎えた2007年末、梅雀は40年以上にわたって所属した前進座を退団することを決断します。当時、劇団の象徴であった梅雀の退団は演劇界に激震を走らせ、「親子の確執か」「劇団内部の内紛か」などと取り沙汰されました。
しかし、関係者の証言や当時の梅雀自身の語りを総合すると、その退団理由はネガティブな衝突だけではありませんでした。前進座という組織の枠内に留まり続ける限り、年間の大半が劇団の地方巡演や固定された演目に拘束されてしまいます。当時すでに映像の世界で高い評価を得ていた梅雀は、「一人の表現者として、外の荒波に揉まれたい」「テレビドラマや映画、そして音楽という自由な世界で自分の限界を試したい」という、抑えきれない芸の衝動に突き動かされていたのです。
偉大な父・梅之助の庇護から抜け出し、自らの足で立つという決断は、50歳を過ぎた役者にとって大きな賭けでした。しかし、その自立があったからこそ、梅雀は単なる「劇団の御曹司」から「日本を代表する名優」へと羽ばたくことができたのです。