三角縁神獣鏡の解釈は、半世紀以上にわたって「邪馬台国畿内説」と「九州説」の陣営争いに直結してきました。両陣営の主張は真っ向から対立しています。
畿内説を支持する論者は、三角縁神獣鏡の圧倒的な出土密度が近畿地方に集中している点、そして奈良盆地の初期巨大前方後円墳(箸墓古墳やホケノ山古墳など)の成立時期と三角縁神獣鏡の配布時期が密接に重なる点を強調します。「卑弥呼が魏から賜った鏡をヤマト王権が継承し、それを地方豪族に配ることで初期国家を統合した」というシナリオは、畿内を邪馬台国とする立場にとって極めて都合の良い理論武装となりました。
一方の九州説の論者は、三角縁神獣鏡を「ヤマト王権が4世紀代に成立させた古墳時代の鏡」と位置づけ、3世紀半ばの卑弥呼の時代とは年代的なタイムラグ(年代観のズレ)があると反論します。九州説の立場では、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳や原の辻遺跡など、北部九州の前原・伊都国エリアから多数出土する「前漢鏡・後漢鏡」こそが魏志倭人伝の鏡であると主張します。後漢代の方格規矩鏡や内行花文鏡こそが卑弥呼の生きた3世紀前半に実在した本物の鏡であり、三角縁神獣鏡は邪馬台国滅亡後に大和で誕生したモニュメントに過ぎないという論陣を張っています。
SNSやネット掲示板、古代史愛好家のコミュニティでは、「黒塚古墳で33面も出たのだから畿内説で決着した」「いや、中国で出ない以上、畿内説の根拠にはならない」といった不毛な水掛け論が2026年現在も繰り返されています。しかし、発掘年代の高精度化(年輪年代法や炭素14年代測定法)が進んだ結果、箸墓古墳の築造開始時期が3世紀後半に遡る可能性が高まる一方で、三角縁神獣鏡そのものの製作開始時期については、卑弥呼の没年(248年頃)の直前直後、あるいはそれ以降のヤマト王権本格始動期まで幅を持たせて検証する姿勢が定着しつつあります。