「側室が男子を産めば、母子ともに栄華を極めた」というイメージは、通俗的なフィクションが生み出した部分的な錯覚です。現実の武家社会における「側室の子」の運命は、より冷厳な家臣団のパワーバランスに支配されていました。
歴代の徳川将軍を見ても、初代家康、第3代家光、第8代吉宗、そして最後の第15代慶喜に至るまで、正室から生まれた将軍は第2代秀忠と第3代家光(諸説あり)、第17代家達(養子)ら極めてわずかであり、大半が側室の子でした。当時の乳幼児死亡率の高さ(5歳未満で約20〜30%が死亡)を考慮すれば、側室制度なしに武家の血統を安定維持することは生物学的に不可能だったといえます。
しかし、子どもが藩主や将軍に就任したとしても、生母の立場が劇的に跳ね上がるわけではありませんでした。家中の重臣たちは、生母の出身家(外戚)が藩政に不当に介入することを何よりも警戒したためです。将軍の生母であっても、大奥内での立場は「御部屋様」の筆頭格に留まり、公式の外交や幕政の儀式に口を挟むことは重罪とされました。生母としての情愛と、藩や幕府の公的秩序の板挟みに遭いながら、隔離された環境で生涯を終える女性が少なくありませんでした。