映画『366日』の核心を語る上で避けて通れないのが、主人公・真喜屋湊(赤楚衛二)と玉城美海(上白石萌歌)が辿り着いた結末の解釈です。高校時代、沖縄の眩しい日差しの下で音楽を通じて惹かれ合ったふたりは、互いにかけがえのない存在となりながらも、運命の過酷な濁流に呑み込まれていきます。
東京と沖縄に離れ離れとなり、大人になったふたりを決定的に引き裂いたのは、湊が下した「突然の失踪」という苦渋の選択でした。美海の前から忽然と姿を消した湊に対し、物語前半では観客に対してもその理由は伏せられます。しかし物語の後半、湊が進行性の重い病に侵されていた事実が明かされます。湊は自らの余命を悟ったとき、美海の輝かしい未来を自分の看病や悲痛な別れで縛り付けたくないという、あまりにも不器用で痛切な自己犠牲から沈黙を選んだのです。
年月が流れ、美海は湊が遺したカセットテープと手紙の存在を知ります。そこに吹き込まれていたのは、美海への謝罪ではなく、美海と出会えた人生がいかに幸福であったか、そして美海には立ち止まらずに自分の足で生きてほしいという祈りにも似た愛の告白でした。映画の終幕、湊の死という取り返しのつかない喪失を前にしながらも、美海は絶望に沈むのではなく、湊からもらった愛を糧に自らの人生を力強く歩み出す選択をします。タイトルの「366日」が示す「閏(うるう)年のように、1日分多くあなたを想い続ける」という言葉は、未練の鎖ではなく、前へ進むための生涯の灯火として結実するのです。