長谷川等伯の生涯と代表作|松林図屏風と狩野永徳との確執の真相

長谷川等伯の生涯と代表作|松林図屏風と狩野永徳との確執の真相

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当時の京都画壇は、織田信長や豊臣秀吉の寵愛を一手に集めた狩野永徳率いる狩野派が完全掌握していました。公儀の巨大建築プロジェクトを独占する狩野派に対し、地方出身の一介の絵師に過ぎなかった等伯が参入する余地は本来皆無でした。

しかし等伯は、自らを「雪舟五代」と称し、正統な水墨画の後継者であると猛アピールを開始します。この動きを危険視した狩野派との間で、激しい確執が勃発しました。天正17年(1589年)、大徳寺三門(金毛閣)の天井画・柱絵の制作を等伯が担当した際、狩野派は強い圧力をかけたとされています。さらに翌年、秀吉が造営を進めていた御所対屋の障壁画制作を等伯が受注内定した際には、永徳が秀吉の弟・秀長に猛抗議を行い、等伯陣営の仕事を力尽くで白紙撤回させました。

この事件は、当時の公家日記『言経卿記』にも生々しく記録されています。巨大組織を牛耳る絶対権力者・永徳と、実力と人脈で下剋上を狙う挑戦者・等伯。二人の熾烈な心理戦と政治闘争は、天正18年(1580年)に過労で倒れた永徳が48歳の若さで急逝するまで続きました。

清水 千尋
著者

清水 千尋

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。