山梨の旧国名が甲斐なのに県名が山梨の理由|廃藩置県の謎を追う

山梨の旧国名が甲斐なのに県名が山梨の理由|廃藩置県の謎を追う

山梨の旧国名が甲斐なのに県名が山梨の理由|廃藩置県の謎を追うに関する専門家の意見を分かりやすく解説いたします。

インターネット上の掲示板やSNS、知恵袋などで長年まことしやかに語り継がれているのが、「明治政府に味方した官軍側は旧国名をそのまま県名にし、抵抗した賊軍側は旧国名を奪われて郡名に変えられた」という、いわゆる「賊軍懲罰説」です。

この言説では、長州(山口県)、薩摩(鹿児島県)を例外としつつも、「旧幕府側だった地域はアイデンティティを奪うために無名な郡名に改名させられた」と説明されることが多々あります。山梨県についても「武田の遺風が残る強力な武士団の蜂起を恐れ、甲斐の名を奪ったのではないか」と語られるケースが散見されます。

しかし、山梨県の歴史と幕末維新の実態を照らし合わせると、この説は完全に破綻します。慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、甲府城を目指して進軍してきた旧幕府軍の新選組(甲陽鎮撫隊)に対し、板垣退助や伊地知正治率いる新政府軍(東山道先鋒総督軍)は電光石火の早さで甲府城に入城しました。甲府城代や町民は新政府軍を歓迎・恭順し、甲斐の地は一切の抵抗を示すことなく官軍の拠点となったのです。甲州勝沼の戦いで旧幕府軍を撃破した舞台であり、山梨は断じて「賊軍」ではありません。

さらに全国を見渡しても、戊辰戦争で最後まで新政府軍と戦った会津藩(福島県)や庄内藩(山形県)など、東北諸藩でも郡名や都市名が採用されており、逆に官軍側だった土佐(高知県)や肥前(佐賀県)も旧国名ではありません。明治政府の真の意図は懲罰などではなく、「旧封建領主(大名)の支配記憶を払拭し、国民意識を中央政府へと一本化する」という近代官僚制の合理的な中央集権化政策でした。

山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。