一見すると同じように見える三つ鱗ですが、歴史学や家紋研究の現場では鎌倉北条氏と後北条氏の家紋違いが明確に区別されています。その決定的な差異は、三角形の縦横比率にあります。
鎌倉幕府の執権を務めた北条義時ら得宗家(惣領家)が用いた紋は、正三角形を3つピラミッド状に積み重ねた形状を基本としています。北条義時家紋歴史経緯を辿ると、承久の乱(1221年)以降、北条氏の権勢が頂点に達するにつれて、この正三角形の三つ鱗は鎌倉武士の頂点に君臨する絶対的権威の代名詞となっていきました。
一方、戦国時代に小田原城を拠点として関東八州を席巻した小田原北条氏(後北条氏)の紋は、底辺が広く高さの低い平たい二等辺三角形で構成されています。家紋学ではこれを「北条鱗(ほうじょううろこ)」あるいは「後北条鱗」と呼びます。この小田原北条氏家紋詳細に見られる意匠変更には、極めて実利的な理由が存在しました。
後北条氏の祖である北条早雲(伊勢宗瑞)は、もともと室町幕府の高級官僚であった備中伊勢氏の出身です。早雲自身は生涯「伊勢」を名乗っており、家紋も「対い鶴」などを用いていました。しかし、二代目の北条氏綱の時代(大永3〜4年・1523〜1524年頃)、京都風の伊勢姓を捨て、かつて関東の武士たちを束ねた名門「北条」へと改姓を断行します。このとき同時に採用されたのが三つ鱗でした。
あえて正三角形ではなく横長の二等辺三角形へと変化させた北条家家紋三角形の秘密には、戦国乱世における視認性の向上が挙げられます。戦場での幟旗(のぼりばた)や陣羽織に染め抜いた際、横長の平三角形は風になびいても歪みにくく、遠方からの識別度が圧倒的に高かったのです。また、先代の鎌倉北条氏に対する畏敬の念を示しつつも、「まったく同じコピーではなく、新たな覇者としての独自性を示す」という高度な差別化戦略が反映されていました。