元治2年(1865年)2月、新選組に激震が走ります。総長である山南敬助が、置き手紙一つを残して突如として京都の屯所から姿を消したのです。最高幹部の脱走という前代未聞の事態の背景には、近藤勇や副長・土方歳三との間に生じていた深い思想的・戦術的な確執がありました。
確執の決定的な要因として挙げられるのが、「西本願寺への屯所移転問題」です。手狭になった壬生から西本願寺へ本拠を移そうとする近藤・土方に対し、山南は強硬に移転へ反対しました。長州藩と繋がりの深い西本願寺に乗り込むことの政治的リスクや、寺院に対する横暴な態度を武士の道に反すると考えたためです。
さらに、教養豊かな文武両道の策士・伊東甲子太郎の入隊も山南の立場を複雑にしました。近藤が伊東を参謀として重用し始めたことで、尊皇攘夷の志を同じくする山南の存在感が組織内で急速に形骸化し、孤立感を深めていったと見られています。