安藤百福の歩みを語る上で避けて通れないのが、前半生における圧倒的なアップダウンとアイデンティティの背景です。1910年(明治43年)、日本統治下の台湾・嘉義庁に生まれた百福(本名:呉百福 / Go Pek-hok)は、幼少期に両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母のもとで育てられました。この環境が、彼の類まれな商才と観察眼を育む土台となります。
22歳で繊維会社を立ち上げて成功を収め、拠点を大阪へ移した後は、メリヤス事業、光学機器、製塩、スライド計算尺など、時代のニーズを先取りした事業を次々と展開しました。しかし、戦中戦後の混乱期には物資統制令違反の嫌疑や脱税容疑などで二度の投獄を経験。過酷な拷問に耐え抜いた末に無罪放免を勝ち取るなど、その道のりは常に命がけの試練の連続でした。
決定的な危機が訪れたのは1957年、百福が47歳のときです。理事長を務めていた信用組合が放漫経営の末に破綻。無限責任を負っていた百福は、大阪府池田市の借家一軒を残して、これまで築き上げた工場の機械から家財道具に至る全財産を差し押さえられ、一夜にして無一文へと突き落とされました。
常人であれば立ち直れない絶望の淵で、百福を精神的・物質的に支えたのが、妻の安藤仁子(まさこ)でした。朝ドラ『まんぷく』でヒロインのモデルとなった仁子は、困窮を極める生活の中でも愚痴ひとつこぼさず、百福の再起を信じて台所を守り続けました。百福は後年、「失ったのは財産だけ。その分、経験が血肉となって残った」と手記に書き残しています。