1945年8月9日、小倉上空で何が起きていたのか。ボックスカーの搭乗員手記や当時の陸軍造兵廠関係者の証言からは、数分間の天候の綾が生死を分けた緊迫の実態が浮かび上がります。
当時、小倉陸軍造兵廠で勤務していた技術幹部の回想手記によると、「前日の八幡空襲の煙が低空に滞留しており、さらに警戒警報の発令とともに各工場が煙幕を焚いたため、上空からは街の輪郭がほとんど見えない状態になっていた」と記録されています。ボックスカーの機長スウィーニーは自著『私は原爆投下機に乗っていた』の中で次のように記しています。
「小倉上空には厚い雲と煙が立ち込めていた。投下爆撃手のカーミット・ビーハンは目標である造兵廠を目視で捉えることができなかった。燃料計は故障し、使える燃料は急速に減っていた。小倉上空を2度、3度と通過したが、ついに視界は回復しなかった。我々には選択の余地がなかった。残る燃料で到達できる長崎へ向かうしかなかった。」
この時、小倉の上空を覆った煙と米軍の「目視投下」という厳格な軍規が、小倉の壊滅を防ぎ、同時に長崎へ悲劇をもたらす決定打となりました。