大正時代、日本の出産シーンにおいて病院の分娩室を利用できたのは、ごく一部の富裕層や重篤な合併症を抱えた妊婦に限られていました。全出産のうち95%以上が薄暗い自宅の薄い布団の上で行われる自宅出産であり、地域社会に根ざした「産婆(現在の助産師)」がその手腕を一手に引き受けていました。
明治政府が1899年(明治32年)に「産婆規則」を公布したことで、近代的な医学知識を持つ公認産婆の育成が進みましたが、大正期になっても農村部や漁村では、昔ながらの経験則のみに頼る「取上婆(とりあげばば)」が活動を続けている地域が少なくありませんでした。湯沸かし設備も不十分な中、産婆は風呂敷包みに消毒薬や鉗子(かんし)、脱脂綿を詰め込み、夜間であっても提灯ひとつで産家へと駆けつけました。
当時の自宅出産の実態は過酷そのものです。畳の上に油紙や古い筵(むしろ)を敷き、陣痛に耐える妊婦を家族が後ろから抱きかかえる「座産」の風習も一部に残っていました。電気や水道が完全に普及していない家屋では、薄暗いランプの灯りと井戸水で沸かした湯だけを頼りに分娩が進められるなど、常に感染症の脅威と隣り合わせの現場だったのです。