ネット上の情報や歴史談義において、秀長に関してしばしば誤解されているポイントが「後継者問題」と「大和豊臣家の消滅プロセス」です。秀長個人の死因だけでなく、その家系がなぜ跡形もなく消滅してしまったのかについては、意外な事実が存在します。
秀長には実子(男子)がおらず、姉・日秀の子であり関白・秀次の弟にあたる豊臣秀保(羽柴秀保)を養子に迎え、後継者として立てました。秀長の死後、秀保は13歳で大和・紀伊・和泉100万石を相続しましたが、わずか4年後の文禄4年(1595年)、17歳という若さで謎の急死(吉野川での水死・病死説など諸説あり)を遂げてしまいます。
秀保の早世により、秀長系の大和豊臣家はあっけなく断絶。その広大な領地と郡山城に蓄えられていた莫大な金銀財宝は、すべて秀吉の本家に没収・再編されました。秀長が生前、清濁併せ呑む形で蓄財した資産は、結果として秀吉の朝鮮出兵の戦費などに消えていくことになったのです。
また、「秀長は地味で温和なだけの調整役だった」というイメージも完全な誤解です。実際の秀長は、但馬平定戦、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州征伐と、豊臣軍の主幹作戦において常に先鋒や総大将を務め、一度も敗戦を喫したことがない「戦国屈指の常勝名将」でした。軍事力という圧倒的な実力と武功の裏付けがあったからこそ、荒くれ者の戦国大名たちも秀長の調停に素直に従ったのです。