上杉謙信が酒を愛したことはよく知られる。特に有名なのが、「酒は養生の薬なり」という言葉だ。しかし、これは謙信が無制限に酒を飲んだという意味ではなく、健康を保つための適度な飲酒を良しとしたという文脈で語られる。謙信は日々の鍛錬と精神修養に厳しい武将であり、酒に溺れて政務を怠るような人物ではなかった。むしろ、酒を嗜む時間すら自己管理の一部として位置づけていた節がある。
また、謙信にはこんな逸話が残る。ある冬の夜、家臣たちと酒を酌み交わしていた際、謙信は盃を手にしたまま居眠りを始めた。家臣が盃を取り上げようとすると、謙信は目を閉じたまま「まだ飲み終えておらぬ」とつぶやき、杯を離さなかったという。この話が事実かどうかは定かではないが、酒と杯に対する執着、あるいは儀礼としての酒の場へのこだわりを象徴する挿話として後世に伝えられた。ここで重要なのは、この逸話に登場するのは「盃」であって「馬上杯」ではないという点だ。
謙信の酒にまつわる名言や逸話の数々は、後の時代の人々が「軍神」の人間的な側面を愛でるために編み出した部分が大きい。酒を飲み、時に涙し、時に歌を詠む。非情な戦国の世を生き抜いた男の、柔らかな内面。そうしたイメージの集積が、やがて「馬上杯」という具体的な器物との結びつきを生んだ可能性が高い。