1964年、自らの集大成として迎えた東京オリンピックの年、池田の肉体は過酷な病魔に侵されていました。
同年9月、国立がんセンターで精密検査を受けた池田は、喉頭ガン(当時は本人への告知を避け「前喉頭腫瘍」と発表)の確定診断を受けます。主治医からは即時入院と治療を強く勧められましたが、池田は「国の威信をかけた大事業を見届ける」という強い意志で、体調不良を隠しながら10月10日の東京オリンピック開会式に貴賓席から出席しました。
そして、大会が大成功のうちに幕を閉じた翌日の10月25日、池田は病気療養を理由に電撃的に内閣総辞職を表明します。まさに国家の晴れ舞台を最後まで見届けた上での劇的な退陣劇でした。その後、東京大学医学部附属病院でコバルト放射線治療や手術などの闘病生活を続けましたが、1965年8月13日、急性肺炎を併発して息を引き取りました。享年65歳でした。
池田勇人の華麗な家系図は、日本の政財界に深く根を下ろしています。
池田家は名門酒造家をルーツとし、妻・満枝との間に3人の娘(直子、紀子、祥子)をもうけました。三女・祥子の夫となったのが、大蔵官僚出身で後に外務大臣や防衛庁長官を務めた池田行彦(旧姓・粟根)です。行彦は池田家の養嗣子として地盤を継承し、宏池会の重鎮として活躍しました。さらに親族には、労働大臣を務めた近藤鉄雄や、その長男である衆議院議員・米沢市長の近藤洋介などが名を連ねており、池田の血脈と政治的遺産は次世代へと引き継がれています。