事件の引き金となったもう一つの決定的な要因が、陸軍内部で泥沼化していた「皇道派」と「統制派」による権力抗争です。
両派閥の決定的な違いは、国家改造に対するアプローチと軍事戦略の思想にありました。
皇道派(主な人物:荒木貞夫、真崎甚三郎など)は、精神主義と天皇への絶対的忠誠を重視し、ソビエト連邦を主敵と見なして対露戦を想定していました。国内政治に対しては、武力行使による急進的な直接行動(クーデター)を辞さない青年将校たちを庇護し、心情的に支持していました。
一方の統制派(主な人物:永田鉄山、東條英機など)は、精神論を排した軍備の近代化と、国力を挙げて戦う「国家総動員態勢」の構築を目指していました。彼らはクーデターのような非合法手段を厳しく否定し、官僚や財閥と手を組みながら、法律と制度を通じて合法的に軍部主導の国家体制を作ろうと画策しました。
この対立は、統制派の筆頭であった永田鉄山軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で斬殺される「相沢事件(1935年)」によって頂点に達します。皇道派の牙城であった近衛歩兵第3連隊や歩兵第1連隊などを擁する第1師団に「満州への派遣命令」が下ったことで、将校たちは「満州へ送られれば昭和維新は不可能になる」と焦りを募らせ、決起へのカウントダウンが始まりました。