関東と関西の関とはどこか?歴史に消えた境界線の真相と由来を追う

関東と関西の関とはどこか?歴史に消えた境界線の真相と由来を追う

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古代の治安維持において決定的な役割を果たした三関ですが、時代の変化とともにその機能と位置付けは変化していきました。当初の三関は以下の3か所でした。

  • 不破関(ふわのせき):美濃国(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)
  • 鈴鹿関(すずかのせき):伊勢国(現在の三重県亀山市関町)
  • 愛発関(あらちのせき):越前国(現在の福井県敦賀市道口付近)

天皇が崩御した際や国家の非常事態には、謀反を防ぐためにこれら3つの関所を封鎖する「固関(こげん)」という厳格な軍事儀礼が行われました。『続日本紀』などの正史にも、勅使が派遣されて関の門を閉ざした緊迫の記録が幾度となく残されています。

延暦8年(789年)、桓武天皇の時代に大きな転換期が訪れます。越前の愛発関が老朽化や道路事情の変化から廃止され、近江国(現在の滋賀県大津市)に位置する「逢坂関(おうさかのせき)」が新たな三関の一角として組み込まれたのです。

逢坂関は、京都から東国や北陸へ向かう旅人が必ず通る交通の急所でした。百人一首に収められた蝉丸の和歌「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」でも知られるように、ここは単なる検問所を超えて、人と人、都と地方が出会い別れる象徴的な場所となりました。

この逢坂関の設置以降、平安貴族や京の都人たちの間で「逢坂関より東を関東、逢坂関より西を関西」と呼ぶ用法が定着していきます。この時代における「関西」とは、京都や大阪、播磨(兵庫)など、畿内を中心とした文化・政治の中枢エリアを指していました。

阿部 裕樹
著者

阿部 裕樹

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。