かつて「暴動の街」と全国から畏怖された西成・あいりん地区において、なぜこれほど凄まじい規模の騒乱が繰り返されたのか。その根本的な背景には、戦後復興から高度経済成長を底辺で支え続けた日雇い労働者たちが直面していた過酷な生存競争が存在します。
高度経済成長期、新幹線や高速道路、大阪万博(1970年)などの巨大インフラ建設を担う労働力として、全国から釜ヶ崎へと単身の男性労働者が集まりました。早朝の「闇市場」とも呼べる路上の寄り場において、彼らはその日の仕事を現金払いで手に入れる日雇い生活を送っていました。しかし、その労働環境は劣悪を極め、労災隠しや賃金未払いが日常茶飯事であり、手配師(飯場へ労働者を送り込む仲介人)の背後にいた暴力団による不当なピンハネが横行していました。
当時の労働運動関係者の手記には、「雨が降ればその日の飯が食えず、倒れても誰も助けてくれない。警察は労働者を守るどころか、犯罪者予備軍として扱った」という痛烈な告白が残されています。公権力や社会制度から見捨てられたという強い疎外感と、日常的な貧困への恐怖。そこに警察官の威圧的な職務質問や暴力的な対応が重なり、労働者たちの鬱屈した感情は臨界点へと達していきました。
最初の引き金となったのは1961年8月1日に発生した第1次西成暴動です。発端は、あいりん地区内の路上で発生した日雇い労働者の交通事故でした。事故現場に駆けつけた西成警察署員が、倒れた労働者を「すでに死亡している」と独断で判断し、救急車の手配を怠ったまま放置したと労働者たちが激昂。「警察が労働者の命を軽視した」という噂は瞬く間に広がり、数千人の群衆が西成警察署を包囲、投石や放火に発展しました。人権を蹂躙され続けてきた人々の尊厳の叫びが、暴動という激しい破壊行動となって噴出した瞬間でした。