平安時代の貴族女性を象徴する装束といえば「十二単(じゅうにひとえ)」です。しかし、この名称自体が後世の俗称であり、当時の正式名称は「唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)」あるいは「女房装束」と呼ばれていました。「十二」とは枚数ではなく「数多くの衣を重ねている」という修辞に過ぎません。
風俗博物館や宮内庁関連の復元調査データによると、単(ひとえ)の上に重ねる「五衣(いつつぎぬ)」、その上に羽織る「打衣(うちぎぬ)」「表着(うわぎ)」「唐衣(からぎぬ)」、腰から後ろへ引く「裳(も)」までを完全装備した場合、装束一式の総重量はおよそ15kgから最大で20kg強に達します。現代で言えば、小学校高学年の子どもを一人背負い、さらに裾を数メートル引きずりながら歩くようなものです。
なぜこれほどまでに重い衣装を着用しなければならなかったのか。その理由は主に3点に集約されます。
第1に、平安貴族の邸宅「寝殿造」の極端な寒さです。当時の建築は壁が極めて少なく、建具は格子戸や御簾(みす)、几帳(きちょう)などの簡易な仕切りが中心でした。夏場に通気性が良い反面、京都の盆地特有の底冷えする冬は室内温度が氷点下近くまで下がります。綿(木綿)が一般化していなかった時代、重ねた絹織物の間に空気の断熱層を作る「着る防寒具」としての機能が死活問題でした。
第2に、「動く必要のない身分」を視覚的に証明する誇示です。労働に従事する庶民は動きやすさを最優先しますが、特権階級の女性は自ら歩行して立ち働く必要がありません。身動きが取れないほど重厚な装束そのものが、「自分は周囲にかしづかれ、座しているだけで生活が成り立つ最高位の存在である」という権力と富の象徴だったのです。
第3に、源氏物語に見る平安貴族の装束の美学が示すとおり、女性の身体線(ボディライン)を完全に隠蔽し、色彩のグラデーションのみを美の対象とする空間芸術への昇華です。『紫式部日記』には、寛弘5年(1008年)の敦成親王誕生の祝宴において、女房たちが競い合って豪奢な装束を着込み、あまりの重さと締め付けに気分を悪くしたり、座ったまま身動きが取れなくなったりした様子が赤裸々に記されています。美しさは文字通り、肉体的な忍耐の上に成り立っていました。