「昔はどこの商店街にもあったのに、最近見かけなくなった」という声は決して気のせいではありません。かつて関西圏で200店舗以上を誇ったチェーンがなぜ店舗数を絞り込むに至ったのか、その経緯を紐解くには株式会社丹波屋の沿革と和菓子小売市場の構造変化を知る必要があります。
株式会社丹波屋は1970年代に大阪で産声を上げ、下町の商店街やターミナル駅前を中心にフランチャイズ展開を加速させました。店頭で実際に餅を焼き、餡を包む実演販売スタイルは、買い物帰りの主婦層や学校帰りの学生の心を掴み、関西のソウルフードとしての地位を確立します。
しかし、2000年代以降の市場環境は激変しました。おはぎの丹波屋の閉店理由を業界動向とともに分析すると、主に以下の3つの要因が重なっています。
- コンビニスイーツの台頭とチルド流通の発達:24時間いつでも100円台でそこそこの和菓子が買える環境が定着し、日常のおやつ需要が分散したこと。
- FCオーナーの高齢化と事業承継問題:昭和期に開業した個人店主の引退時期が重なり、後継者不足から黒字のまま暖簾を下ろす選択をした店舗が相次いだこと。
- シャッター通り化と駅前再開発:主たる出店先だった昔ながらの商店街そのものの客足減少、および駅前再開発に伴う立ち退き。
これらを受けて丹波屋本部は、非効率なロードサイドや閑散期の長い小型店を整理し、天神橋筋や難波、四条大宮といった「圧倒的な歩行者トラフィックが存在する超一等地」へとリソースを集中させる経営判断を下しました。つまり「消滅」したのではなく、確実に愛される拠点を守り抜くための筋肉質な再編が行われたのが実態です。