多くのリスナーが抱く「宇多田ヒカルの『あなた』は誰に向けた曲なのか」という疑問に対し、本人が当時の楽曲解説インタビューで語った告白は極めて示唆に富んでいます。映画制作陣からのオーダーは「映画の主人公夫婦のような、生と死を越えて結ばれる絶対的な愛」を描くことでした。
しかし、当時の彼女は自身の私生活を振り返った際、パートナーに対するロマンチックな恋愛感情だけでは「黄泉の国(死後の世界)まで迷わず追いかけていく愛」を嘘偽りなく書くことにリアリティを感じられなかったと明かしています。その極限の愛を自分の中で探求した結果、行き着いた対象が2015年に誕生した最愛の息子でした。
「この子のためなら、命を投げ出しても構わない」「もしこの子が黄泉の国へ行ってしまうなら、自分も迷わず追っていくだろう」――そうした母としての本能的な衝動と無償の愛をベースに置くことで、映画の世界観である夫婦愛とも完全に重なり合う、崇高な歌詞が生み出されました。
歌詞の中盤に登場する〈肌を寄せ合えば 小さな波音が聴こえる〉という情景描写は、抱きしめた幼子の柔らかな体温や鼓動そのものを想起させます。特定の対象をあえて「あなた」という抽象的な人称に留めることで、聴き手が自身の恋人、伴侶、あるいは我が子や大切な家族を投影できる多重構造のマスターピースへと昇華されているのです。