秀吉の没後、二人の妻はまったく異なる運命の道を歩むことになります。秀吉の妻たちの死因と最期は、豊臣政権の終焉を象徴する鮮烈なコントラストを描き出しました。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、ねねは出家して「高台院(こうだいいん)」と号し、京都の三本木、のちに東山へと移住しました。慶長10年(1605年)、徳川家康の財政支援を受けて亡き秀吉の菩提を弔うために建立したのが、現在も京都屈指の名刹として知られる高台寺(こうだいじ)です。
慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」によって大坂城が落城し、淀殿は愛息・秀頼とともに自害(享年47前後)。豊臣宗家はここに滅亡しました。ねねはこの悲報を京都の地で受け止めながら、豊臣一族の冥福を祈り続けました。
高台院(ねね)の最期は寛永元年(1624年)9月6日、京都・高台寺屋敷にて息を引き取りました。享年76(または77歳)。死因は老衰および病気と伝えられています。徳川幕府は彼女に対して1万石余りの化粧料を終生給付し、朝廷も准三宮(じゅんさんぐう)の待遇を与えるなど、天下の正妻としての栄誉を最後まで保ち続けました。現在、高台寺にあるねねの墓所(霊屋・おたまや)には、秀吉とねねの木像が安置され、ねねの遺骸はその真下深くに今も静かに眠っています。