6世紀に入ると、百済の聖王は首都を泗沘(現在の扶余)へと移し、国家体制の大改革に着手した。仏教の受容と中国南朝との交流を通じて国力を回復させた聖王は、奪われた父祖の地・漢江流域の奪還を狙う。ここで百済は新羅と堅固な軍事同盟を結び、高句麗の防衛線を突破することに成功した。
しかし、勝者の歓喜は長く続かなかった。高句麗を撤退させた直後、同盟国であった新羅が背後から切りかかり、漢江流域を独占。聖王自ら陣頭に立って立ち向かった管山城の戦いで、聖王は戦死という凄惨な最期を遂げる。同盟の破綻と聖王の死は百済に壊滅的な打撃を与え、三国の覇権争いは新羅が主導権を握る新局面へと突入していった。