大隈重信の生涯を語る上で欠かせないのが、明治22年(1889年)10月18日に発生した爆弾テロ(暗殺未遂事件)です。外務大臣として不平等条約の改正交渉を進めていた大隈は、大審院(現在の最高裁判所に相当)に外国人判事を登用するという妥協案が漏洩したことで、国家主義団体「玄洋社」の青年・来島恒喜から馬車に爆弾を投げつけられました。
右大腿部に重傷を負った大隈は、一命を取り留めたものの右脚の切断を余儀なくされます。当時の麻酔・外科技術を考慮すれば耐え難い激痛と精神的ショックを伴う大惨事でした。しかし、大隈は事件直後に自決した犯人に対して「彼には彼なりの国を思う至誠があったのだろう」と語り、一切の怨み言を口にしなかったと伝えられています。
その後、大隈はアメリカから取り寄せた特注の義足を装着してリハビリに励み、杖を突きながら堂々と政界へ復帰しました。公の場でも「脚を1本なくしたおかげで頭が軽くなり、ますます頭脳明晰になった」と周囲を笑わせるなど、底知れないポジティブさとユーモアを発揮。この強靭なメンタリティこそが、国民から絶大な支持を集めた「大隈人気」の源泉でした。