大学卒業後の進路として、藤原が選んだ就職先は地元トップの地方銀行である株式会社山陰合同銀行(ごうぎん)でした。営業担当として配属され、地域の顧客先を回る多忙な日々を送ることになります。
この時期の活動実態は過酷を極めていました。月曜日から金曜日まではスーツを着用して厳格な金融実務をこなし、金曜日の終業後に夜行バスや車へ乗り込んで東京へ移動。土曜日・日曜日に都内のライブハウスで演奏し、日曜深夜の便で山陰へ戻って月曜日の朝から再び銀行窓口や営業先へ向かうという完全な二重生活を約2年間にわたり継続したのです。
音楽関係者への取材によると、藤原はこの銀行員時代について「名刺の渡し方から相手の懐に入る会話術、締め切りを守る厳格さまで、社会人として必要な基礎をすべて学べた極めて価値のある時間だった」と述懐しています。単なる苦労話にとどまらず、組織人としてのリアルな苦悩や顧客観察の視点が、後の大ヒット曲群におけるリアリティあふれる歌詞表現の土台となったことは間違いありません。