競技面において日本中を熱狂の渦に巻き込んだ筆頭が、女子バレーボール日本代表の快挙です。大松博文監督のスパルタ指導のもと、日紡貝塚の選手たちを中心に編成されたチームは「東洋の魔女 バレーボール 快挙」として世界を驚嘆させました。回転レシーブを武器に決勝で宿敵ソ連をストレートで破った一戦は、テレビ視聴率66.8%(ビデオリサーチ関東地区)という驚異的な数値を叩き出し、今なお歴代最高視聴率記録の上位に君臨しています。
日本選手団は合計で金メダル16個、銀5個、銅8個を獲得し、1964年東京オリンピック メダル獲得数は米国、ソ連に次ぐ世界第3位の好成績を収めました。ボクシングの桜井孝雄氏、レスリング勢の活躍、柔道の無差別級を除く3階級制覇など、快進撃が続きました。
しかし、栄光の表舞台の裏には深い影も落ちていました。男子マラソンで、エチオピアのアベベ・ビキラ選手に次ぐ2位で国立競技場に戻りながら、最後のトラックで英国のヒートリー選手に抜かれ銅メダルとなった円谷幸吉氏です。円谷幸吉 マラソン 銅メダルの獲得は日本男子陸上界にとって偉業であったにもかかわらず、本人は「国立競技場で日の丸を揚げられなかった」という自責の念に囚われました。次回メキシコ五輪での金メダルを義務づける周囲の過剰な重圧と相次ぐ怪我の末、1968年に自死を選んだ円谷氏の手記は、国家主義的な期待が個人の尊厳を押しつぶしてしまう危うさを後世に告発しています。