おでん作りにおいて、なぜ多くの料理人や専門家が口を揃えて下茹でを推奨するのでしょうか。単に「柔らかくするため」だけなら、最初からおでんつゆに入れてじっくり煮込めば良いように思えます。しかし、調理科学の見地から分析すると、生のまま味付けされたつゆで煮込むことには大きな構造的欠陥が存在します。
第1の理由は、浸透圧の原理による細胞の硬化防止です。生の大根の細胞内にはたっぷりと水分が含まれています。塩分や糖分を含んだおでんつゆに生の大根を直接投入すると、浸透圧の作用によって細胞内の水分が一気に外へ引き出されます。その結果、大根の細胞壁が収縮して固く締まってしまい、肝心のだしが中心部まで浸透できなくなってしまうのです。まず真水やお米のとぎ汁で煮ることで、細胞同士を繋ぐペクチンを緩め、組織を均一に軟化させる必要があります。
第2の理由は、特有のエグみと辛味成分の揮発・除去です。大根にはアブラナ科特有の「イソチオシアネート」という辛味・刺激成分や、微量のアクが含まれています。下茹でを経ずに直接煮込んでしまうと、これらの成分がおでんつゆ全体に溶け出し、つゆが濁るだけでなく、スープ全体にツンとした雑味や青臭さが残ってしまいます。清澄で澄んだ旨味を保つためには、この下茹でによるアク抜き作業が欠かせません。
第3に、余分な水分を抜いてだしの「受け皿」を作ることが挙げられます。生の大根は約95%が水分です。下茹でによって大根特有の水分を適度に排出し、細胞の隙間を広げることで、その後に浸透させる芳醇なだしの通り道が完成します。「下茹でなしで煮汁を吸わせる」ことは、すでに満杯のスポンジに色水を吸わせようとするのと同じであり、事前の水分置換こそが味染みの決定打となります。