1837年2月19日、大塩平八郎は門弟や近郊の農民ら約300名とともに決起しました。大塩が事前に近隣の村々に配布した大塩平八郎 檄文 内容は、「湯武放伐(暴君を倒すことは正義である)」の思想を引用し、幕府役人の不義と豪商の不正を激しく断罪。「四海困窮いたし候節は、天禄永く終らん」という『論語』の言葉を掲げ、民を苦しめる幕府の天命は尽きたと宣言する、極めて過激な国家告発文書でした。
一行は「救民」の旗を掲げて豪商の屋敷を砲撃・焼き討ちし、蔵の金や米を群衆に分け与えました。しかし、決起直前に門弟の裏切りによって奉行所に計画が漏洩していたため、幕府軍の反撃は迅速でした。わずか半日足らずで反乱軍は潰走し、大坂市中は大火に見舞われ、約3,300戸(市街の約5分の1)が焼失しました。
大塩平八郎の乱 結末 死因について、大塩は逃亡後、約40日間にわたり大坂市内の油商人・美吉屋の離れに潜伏していました。しかし3月27日、幕吏に包囲されると、養子の格之助とともに火薬を使って自爆し、壮絶な割腹自害を遂げました。遺体は焼け焦げて判別が困難な状態だったと伝えられています。